室屋義秀 デビューから王者になるまでの道のり

新チャンピオンもデビュー当時は苦難の連続だった。栄光を手にするまで軌跡を辿る。

2017年のレッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップは、ラスト2戦を連勝した室屋義秀が、チャンピオンシップポイントランキングでトップに立っていたマルティン・ソンカを逆転し、初の年間総合優勝を果たした。室屋がレッドブル・エアレースにデビューしたのは2009年だから、6シーズン目での快挙達成ということになる(2011~2013年は、レッドブル・エアレースが中断していた)。

(↑写真)2009年デビュー当時の室屋。©️Daniel Grund/Red Bull Content Pool

 

弱音を口にするパイロンヒット王

今にして思えば信じられないような話だが、デビュー当初の室屋はレーストラックをまともに飛ぶことにすら苦労するほど、悪戦苦闘していた。時速370㎞というスピードで次から次へと目の前に現れる2本のパイロンの間をすり抜けていく。そんなことすら困難を極めたのである。

「飛行機のスピードに自分の感覚がついていけずに後れてしまう。こんなトラックを本当に飛べるのかな、と思いました」

2009年当時、室屋はそんな"弱音"を何度も口にしていた。

(↑写真)2009年の第4戦ブダペストの予選を飛ぶ室屋。©️AP Images/Red Bull Content Pool

レッドブル・エアレースのレーストラックを飛ぶという行為はかなりの非日常だ。どんなにレーストラックをイメージしてフライトトレーニングをしようとも、実際のトラックはやはり別物。室屋はレースの度に面くらい、ようやく慣れ始めたころにはレースは終わり、また次戦までトラックを飛ぶことを待たなければならない。じれったい作業の繰り返しだった。

そんな状態では、ノーペナルティで飛ぶのも一苦労である。室屋はデビューシーズンの2009年、年間を通じて最多のパイロンヒットを記録し、最終戦後には「パイロンヒット王」なるありがたくない表彰まで受けたほどだ。

当時は現在とレース方式が異なり、予選の結果次第で「予選落ち」もあった。予選で下位に終われば本選には進出できず、チャンピオンシップポイントを獲得できないのはもちろんだが、室屋がよく口にした言葉を借りれば、「しっちゃかめっちゃかなフライト」ばかりを繰り返すルーキーパイロットには、貴重なレーストラックでのフライト機会を奪われるのが何より痛かった。室屋にとってはまずは予選を通過し、1本でも多く飛ぶことが大目標だったのだ。2009年の最終戦では自己最高の6位に入ったが、表彰台ははるかかなたに霞んで見えた、というのが現実だっただろう。

翌2010年になっても、事態が大きく好転することはなかった。室屋自身の操縦技術は着実に進歩していたのだが、パイロットの成長とは別のところで、次々と災難に見舞われたからである。

(↑写真)2010年第2戦パースにて。©️Getty Images/Red Bull Content Pool

開幕戦から3レースは通常通り参戦できたものの、第4戦ではテストフライト中にキャノピーがちぎれ飛ぶという前代未聞のトラブルに遭い、続く第5戦では代替機を用意したにもかかわらず、着陸時にプロペラを地面にこするミスを犯してしまい、2戦連続で欠場。その後、第7、8戦のキャンセルが決まったため、室屋は最終戦となった第6戦こそ出場したものの、この年はわずか4レースに出場するにとどまった。

チャンピオンシップポイントランキングは、2009年が13位(全15人)、2010年が12位(全14人)。しかも、レッドブル・エアレースは翌年からの開催休止が発表されたとあっては、当時は室屋が7年後に世界チャンピオンになることなど、いや、そんな日がやってくるということ自体、想像もできなかったというのが正直なところだ。

しかし、結果的に3年間のレッドブル・エアレース中断期間が、室屋を大きく変えた。そう言っても構わないだろう。

 

勝つために必要な要素

2011年に東日本大震災が起き、福島を活動拠点とする室屋も甚大な被害を受けた。そして、同じ年に出場したエアロバティックス世界選手権(アンリミテッドクラス)では屈辱的な惨敗を喫した。そんなつらい出来事の連続がきっかけとなり、室屋はメンタルトレーニングに力を入れるようになった。それが現在、室屋が見せる落ち着きや余裕につながっている。

また、チーム・ファルケンの頭脳と言うべき存在であり、レース分析担当を務めるベンジャミン・フリーラブと知り合ったのも、2012年に出場したエアロバティックス世界選手権(アドバンスクラス)でのことだった。これら中断期間中の出来事については、室屋の自著「翼のある人生」に詳しいが、意外にもレースを休んでいる間に、室屋の、そしてチーム・ファルケン(当時の名称はチーム室屋31)の強化が進んだことは間違いない。レッドブル・エアレースが2014年に再開されると、室屋はその年の第2戦で早くも初めての表彰台(3位)に立つこととなった。

(↑写真)2014年第2戦ロヴィニで初の表彰台を獲得。©️Tomislav Moze/Red Bull Content Pool

そして迎えた2015年。室屋にとっても、レッドブル・エアレースにとっても、大きな転換点となった年である。言うまでもなく、レッドブル・エアレースの日本初開催があった年だ。室屋にとっては資金面での充実、すなわちスポンサー獲得につながったことは間違いなく、レッドブル・エアレースにとっても日本での知名度を飛躍的に高めるきっかけとなった。現在室屋が使用している新型レース機、エッジ540V3が導入されたのも、2015年のことだった。

(↑写真)日本初開催となった2015年第2戦千葉。レース前に多くの報道陣に囲まれた。©️Andreas Langreiter / Red Bull Content Pool


この年、室屋はいずれも自己最多となる3度のファイナル4進出で2度の表彰台(3位)という成果を挙げると、翌2016年では千葉で開かれた第3戦で初優勝。チャンピオンシップポイントランキングを見ても、2014年9位、2015年6位、2016年6位(すべて全14人)と着実に成長を続けてきた様子がうかがえる。そして今年、「パイロット」、「チーム体制」、「飛行機」と、レッドブル・エアレースで勝つために必要なすべての要素が揃った結果、室屋は全8戦中4戦で優勝を果たし、見事に頂点を極めたのである。

(↑写真)2016年第3戦千葉で悲願の初優勝を飾る。©️Predrag Vuckovic/Red Bull Content Pool

特にチーム体制の充実ぶりには目を見張るものがある。機体改良ひとつ取っても、空力、エンジンといった要素ごとにエキスパートが必要に応じて加わり、フライト解析についても専門スタッフがレース会場とは別の場所で待機し、ハンガーと連絡をとりながらリアルタイムでデータを分析している。室屋はデビュー当初、ポール・ボノムやハンネス・アルヒなど、強いパイロットの下には必ず優れたチームスタッフが揃い、強固なチーム体制が整っていることを羨望のまなざしで見ていたが、今では他チームがうらやむほどの体制が整っている。

 

計画していた2017年チャンピオン奪取

さて、室屋が世界チャンピオンになることなど、想像もできなかったと先に記した。だが、この新世界チャンピオンは、デビュー当初から目先の結果に一喜一憂せず、あくまでも長期的な視点で勝つために必要な技術を習得しようとしていた。それは確かな事実であり、その姿勢が今年の歓喜につながった。そう分析することは可能だろう。

「1年目は結果を気にせず、基礎固めをする。基礎ができていないと、たまたま1回勝てたとしても年間を通じてコンスタントに勝つことはできないから」

当時の室屋がよく口にしていた言葉だ。

また、室屋には以前から「順位は相対的な数字でしかなく、必ずしも本質を表さない」という考え方が徹底されていた。表彰台に立ったらオーケーで、ラウンド・オブ・8で負けたらダメなのかというと、そうではない。自分が現時点でできること、あるいはやるべきことができたかどうか。それこそが彼にとって重要な指標だった。

(↑写真)2016第6戦ラウジッツ。レースに集中する室屋。©️Predrag Vuckovic/Red Bull Content Pool

だからこそ、室屋は昨年、「年間総合で表彰台(3位以内)」を目標に掲げながら達成できなかったにもかかわらず、今年のシーズン開幕前には「年間総合優勝」を狙うと公言してきた。なぜ目標を上方修正したのか。それについての室屋の話が興味深い。

「"届かなさそうで届く目標"を立てるには、自分たちの能力とか、トレーニングとか、いろいろな要素すべてを勘案しなければいけなくて、目標設定というのは実はものすごく難しい。そういう意味では、昨年の年間総合3位以内というのも達成はできなかったけれど、(悪天候で中止になった最終戦の)ラスベガスで飛べていれば届いていたかもしれないし、自分としてはまずまずいい目標設定だったと思っています。なので、今年は昨年の結果とは関係なく、ベンジャミンをはじめチーム体制が整い、機体も熟成され、そこにメンタル的なものも含めた自分の技量といったことがかみ合えば、世界チャンピオンに必要な70、80ポイントを取れるという計算ができたので、それを公言しました。もちろん、運もあったと思います。でも、世界一を目指すという、その思いがないとどこかで妥協してしまうし、絶対に届かなかったと思います」

とはいえ、室屋が年間総合優勝を口にしたのは、機が熟したのがたまたま今年だったから、ではない。ルーキーだった室屋が長期的視点に立ち、基礎固めに注力していたのと同じように、「2017年に年間総合優勝」は何年も前に設定された目標でもあったからだという。

(↑写真)2017年第2戦サンディエゴでは新塗装した機体で2勝目を挙げる。©️Joerg Mitter / Red Bull Content Pool

「(2011~2013年の)エアレースの中断期間中にメンタルトレーニングをしていたとき、これから先の目標として、ただ何となく『世界チャンピオンになりたいなぁ』と思うだけではなく、そのためにいつ何をどうやっていくのかという目標設定をしたんです。1年ごとに段階的なステップアップをしていく目標を組むなかで、実を言うと、そのときに『2017年に世界チャンピオンになる』と書いているんです。だから、ずいぶん前から思い描いていたプランであり、ある意味予定通りなんです。ちょっと怖い感じもしますけどね(笑)」

もちろん、段階的な目標をクリアしていった成果として、それに見合う順位が得られるとは限らない。それを室屋が重々承知していることは、すでに記した通りだ。しかし裏を返せば、だからこそ、室屋は熾烈な優勝争いのなかでも落ち着いていられたし、最終的に目標を達成できたのではないだろうか。

(↑写真)2017年第3戦千葉ではサンディエゴに続く2連勝であり母国開催2連覇という快挙。Balazs Gardi/Red Bull Content Pool

「今年優勝できなくても、このまま行けば、来年はもっと強くなる。正しいプロセスを進んできているのだから、この3年くらいは限りなく優勝に近づくチャンスになるだろう、と。このペースをキープしていれば、3年の間に必ず世界一になる日が来るだろうと思えたので、焦りはありませんでした」

8年前のデビュー当時を振り返れば、目の前で起きていることがにわかに信じられないほど、隔世の感がある。

だが、室屋はずっと想像していた。いや、確信していた。歓喜の日は、来るべくしてやってくるのだということを。

(Report by 浅田真樹)

 

■Information

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